JOURNAL · 書家に聞く
三代目・日賀野 琢 ——「書は、生きる業」
書道研究 臥龍会 三代目・日賀野琢。八十余年続く書道会を継ぎ、篆書・隷書を専門とする書家が、自らの歩みと「書とは何か」を語ります。
書道を始めたのはいつ、どんなきっかけでしたか。
小学2年生ごろ、臥龍会の祖父の代の先生(七海水明先生)のところに通い始めました。ただ最初は嫌で嫌で仕方なく、週に一度通うのが苦痛でした。寺子屋のような教室で床に座らされ、足は痺れるし、丸をもらえないと帰れない。友達は遊びに行っているのに、なぜ自分は習字教室に行かなければいけないのか、と思っていました。小学6年まで通いましたが、当時はもう嫌な記憶しかありませんでした。
墨の匂いに包まれた幼少期は、どんな環境でしたか。
今の事務所がある臥龍会に住んでいたので、ここが家であり仕事場、という感じでした。月に一度、たくさんの先生方が審査に集まってきて、子ども心に不思議な感じがしたものです。当時は今と少し環境が違い、廊下の障子の内側で審査をしていたので、その障子を指でそっと破って穴を作り、そこから中を覗き見していました。タバコの煙がムンムンで紙ぼこりもすごい環境で、それで喘息になったと言われています。家が何をしているかというより、墨の匂いを——教室というより事務所として——感じていました。
臥龍会 三代目として育つことは、どんな意味を持っていましたか。
正直、「三代目」と強く意識したことはありませんでした。中学時代は書道をやった記憶がほとんどなく、高校で書道部に入って書道の面白さを知り、なんとなく「こうやっていくのかな」と漠然と思いました。高校のときには、書道部の先輩たちに「お前は臥龍会の三代目なんだから書道部に入れ」と半ば強制的に入部させられたこともあります。本当は医者になりたかったのですが、大学で同じような立場(後を継ぐ三代目・四代目)の仲間が増えていき、「この道しかない、この道で行くんだ」と認識しました。
「書道家になろう」と志したのは、いつ、なぜですか。
はじめから「書道家になろう」と思っていたわけではありません。大学時代に書道漬けになり、夜まで作品を書く面白さを感じました。当時は将来の仕事と結びつくとは思っていなかったかもしれませんが、展覧会に出すようになり、大学院の頃にはすでに「書道で身を立てていく」と感じていたと思います。
あなたにとって「書」とは、一言で言うと何ですか。
一言でいえば「生きる業(ぎょう)」。生きていくためのすべての根源であり、それを取ったら何も残らない——そういうものです。
書道の一番の魅力・面白さは、どこにありますか。
面白さは、自分の思いを文字と筆を通して紙の上に定着できること。その表現の方法ややり方が無限大であることです。そして一度しか書けない「一回性」も大きな魅力。その裏には、思うように書けないという苦痛も常にあります。
スランプや行き詰まりを、どう乗り越えてきましたか。
いろいろありますが、私の場合は、気持ちが前向きになるような映画を見たり、音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、愛犬と戯れたり——そうやって自分を鼓舞するしかありません。より具体的には、違う表現を考えたい時に、いろいろな古典を臨書し、古いものに立ち返って、そこからエキスを集めてくることもあります。ただ精神論としては、書とは別のところで自分の気持ちを活性化させる、それに尽きます。
影響を受けた書家・古典・作品を教えてください。
まず書家としては、大学入学時に入門した伊藤先生。同じ高校の出身と分かり、入学と同時にお稽古に入門しました。ただ大学院修了までの7年ほどしか習えず、先生が亡くなり、その後は今の新井幸夫先生のもとで、もう30〜40年近くお世話になっています。この二人は同じ西川寧(にしかわ やすし)先生の同門で、性格も雰囲気も全く違いますが、多くを学ばせてもらいました。古典では、先ほどの「祭姪文稿」のほか、石に彫った拓本ではなく、紙のなかった時代の木簡・竹簡の字——有名人の書ではないけれど、その頃の生の書きぶりがよくわかり、常々見て刺激を受けています。
毎日の稽古・ルーティンは、どんなものですか。
毎日筆を持つわけではありませんが、締め切りのある作品制作に向けて、まず詩文を選び、その字を調べ、鉛筆で草稿を作る——ここがまた楽しいんです。「どんなものになるかな」と。それを経て実際に書き始める。最初が一番苦痛で、思い通りのものができるか不安ですが、何枚か書くうちに「これなら先生のところへ持っていけるかな」となります。合間には、習いに来る人それぞれの個性を見極めて、「この人にはこういうアドバイスがいい」と考える。人間を相手にしているので、その見極めも楽しいですね。
日展会員・読売書法会 常任理事として、大切にしていることは。
書団の枠組みや役職は、「よくここまでやってきたな」と改めて思います。大切にしているのは、その組織にいる以上「こういう立場の人が書いている」と見られるので、失敗ができない、ある程度の水準の作品を書かなければならない、という思い。そこが一番つらく、苦痛でもあります。ただ役職うんぬんではなく、六十を過ぎた今、自分にしかできない表現——他から見ればまだ師匠と同じと言われても、自分らしさ——を必死に求めています。会員・常任理事といった肩書きがつくことは、それだけの責任を伴う。それを常々感じています。
活動の転機になった出来事や受賞はありますか。
一番の転機は、伊藤先生が亡くなり、平成2年に新井先生のところへ拾っていただいたこと。あのまま伊藤先生のもとにいたらどうなっていたか分かりませんが、新井先生に出会えたことが今の自分を形作っているのは間違いありません。受賞については、日展の特選を2006年と2008年に連続でいただいたことが、責任ある立場になる上で大きな転機でした。それ以外では、ホームグラウンドである謙慎(けんしん)の最高賞・西川賞。前年に日展で落選して落ち込み、作風を変えなきゃと新たに挑戦して翌年出したら最高賞だった——これも意外で、大きな転機でした。